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「砲台に君はいない」 – 愛すべきクマ

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偶然かもしれませんが、イラン戦争が始まって10日目、そしてちょうど演習「スウィフト・ライオン」の29周年記念日にあたるこの日、SISPEC(現在はSCS)の同室の私と部下の一人が、指揮していた155mm榴弾砲の爆発で命を落としました。 事件当初の恐怖と悲しみはとうの昔に過ぎ去りましたが、あの事件はまさに転機と言えるでしょう。理由ははっきりと説明できます。「次は自分たちかもしれない。ただ職務を全うしただけなのに」という気持ちでした。 事件が起こった時、私はそこにいませんでした。拠点にいて、外に出ないように飛び回り、専門家による反対運動を先導していました。幸いなことに、指揮官が真剣にリーダーシップを発揮してくれたとはいえ、老人たちが運営するシステムは、私たち――友を殺したばかりの弾丸を撃ちに行く兵士たち――の面倒を見ることよりも、システムを守ることに関心があるように感じずにはいられませんでした。 確かにこれは戦争ではありませんでした(私たちは権力者たちにその点を訴えました)。しかし、それでも十分に悲劇的で、心に深い傷を残しました。子供の頃は武器がかっこよく見えたのに、突然、友が遺体袋に入って戻ってくるのを見て、ゲームには代償が伴うのだと悟るようなものです。 戦争は時に必要悪であると、私は理性的に言えます。国家同士が戦い、命を犠牲にしなければならない時があります。兵士として、いざ戦闘に駆り出されたからといって、自分が平和主義者だと悟ったとは言えません。 しかし、軍事紛争についてどう思うかと聞かれたら、私は何年も前に経験したあの事件を通してそれを見ています。あの事件の際、亡き友人ブライアン・ンが砲兵隊長に「隊長、忘れないでくれ。砲台にいるのは俺だ、お前じゃない」と念を押したのを思い出します。 私の方がいつも雄弁でしたが、今振り返ってみると、彼の言葉が一番的を射ていました。どんな社会を見ても、紛争に興じるのは(たいてい年配の)人々であり、危険地帯から最も遠い場所にいる人たちです。民主主義社会と称される社会では、軍を文民統制下に置くべきだという考え方が根強く残っています。将軍たちは戦争を望んでいるように描かれています。しかし真実はこうです。紛争を煽るのは必然的に文民政治家です。なぜなら、戦場にいるのは彼らではないからです。ブッシュ政権下でイラク侵攻に乗り気でなかった唯一の人物は...